2014年8月12日火曜日

本 : 『The Art of Failure』 感想とレビュー : なぜゲームをプレイするのか


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The Art of Failure: An Essay on the Pain of Playing Video Games
人はなぜゲームをするのか、というテーマについて、ゲームと現実の違い、失敗がもたらすもの、悲劇を題材にした小説・映画とゲームにおける悲劇の違いに触れながら、筆者の考えが書かれています。少し小難しく理屈っぽいのですが、最後まで興味深く読めました。

気になった内容を引用しながら、考えたことをメモしておきます。

Apparently, games give us a license to engage in conflicts, to prevent others from achieving their goals. When playing a game, a number of actions that would regularly be awkward and rude are recast as pleasant and sociable.
(どうやら、ゲームは、闘争に興じ、他人が目的を達成することを妨害する許可を与えるようだ。ゲームをプレイしている時、普段なら奇妙で失礼と思われる数々の行動が、愉快で社会的とみなされる。)
ある活動がゲームかゲームでないかを定義づける指標の一つと言えそうです。対戦型のゲームはもちろんのこと、シングルプレイのゲームでは、ゲームデザイナは、プレイヤーにある程度の失敗を経験させようとゲームをデザインします。逆に言えば、目的を達成することを妨害するものが何もなければ、それはゲームとは言えないのかもしれません(少なくとも面白くはないでしょう。少し失敗した後クリアしたプレイヤーの方が、全く失敗せずにクリアしたプレイヤーよりもゲームを高く評価した、という研究結果もあるそうです)。「そこに山があるから」的な考え方で、「そこに障害があるから」ゲームをプレイしクリアしたいと思うというのは、優越感を求める本能のように思います。

To play a game is to make an emotional gamble: we invest time and self-esteem in the hope that it will pay off.
(ゲームをプレイすることは、時間と自尊心を投資し、感情を賭けたギャンブルをすることです。)
「自分にはこれができるはず」と考えてプレイし、実際に達成することで自信を得る(失敗すれば自信を失う)、という端的で分かりやすい考え方だと思います。スマホを中心とした誰でもできるゲームの普及、スキルではなく費やした時間に対してリターンを提供する傾向は、投資のリスクを極力低くする方向に進んでいる結果とも言えます。

Where novels and movies concern the personal limitations and self-doubt of others, games have to do with our actual limitation and self-doubts.
(小説や映画が他人の限界や自己不信を扱っているのに対して、ゲームは私たち自身の限界や自己不信に関わっています。)
小説や映画などの、自分のコントロールが全く及ばない媒体とは違い、ゲームでは自分のコントロールが及ぶからこそ、その中でも失敗や悲劇がより自分自身と密接に感じられるということです。RPG のような、最終的にゲームのストーリーにプレイヤーの行動が縛られている物語だとしても、没入感の違いは体験の質を異なるものにしていると思います。最後に挙げる「主人公が死ぬゲーム」にも関係する洞察です。

Self-Defeating behavior is well-tested - but generally unproductive - way to avoid being measured by a task.
(自滅的な行動は、良く知られている - けれども生産的ではない - タスクによって測定されることを避ける方法です)
失敗の原因が能力の不足に起因すると思いたくないがために、テスト前にわざと勉強しなかったり、前日に飲み会に参加したりする、という行動は広くに見られるようです。「きちんと準備すれば、本気を出せば」という可能性を自分に残しておきたい、という心理ですね。

ただ、ゲームでは「自滅的な行動」を追求することが游びの幅を広げることがあるので、必ずしも悪いことではないとされています。例えば、マリオで極力コインと採らず、敵を倒さずクリアすることを目指す、というのも、ゲーム上で用意された「スコア」という指標からは低い評価となりますが、遊びとしては面白いものになるのかもしれません。この辺りも、ゲームと非ゲームの分かれ目を考える参考になりそうです。

Three Kinds of Fairness, Three Paths to Success : Skill, Chance, Labor
節のタイトルだけの切り抜きですが、ここではゲームは何に対して報酬を与えるのか、という話で、以下の三つの要素を上げています。

スキル : プレイヤー自身の操作・思考能力
チャンス : 運(サイコロの出目など)
労力 : 費やした時間(ゲーム内キャラクターのレベル上げなど)

それぞれ同じジャンルでも大分違うとは思いますが、アクションゲームは「スキル >> チャンス > 労力」、RPG は「労力 >= スキル >= チャンス」、多くのコレクション系のスマホゲームは「労力 >> チャンス >> スキル」といった感じでしょうか。ゲームは自尊心を賭けたギャンブルだ、という話を上の方で上げましたが、スキルに重きを置いたゲームほど、リスクは高いと言えるでしょう。労力に重きを置いたゲームは「実際の能力よりも、ただ時間を費やすことに価値があるという価値観は間違っている」といった観点から批判の対象となることがしばしばありますが、個人的にはゲームが何に報酬を与えようとどうでも良い気がします。システムに納得できないゲームはプレイしなければ良いだけです。

主人公(操作キャラクター)が死ぬことでクリアとなるゲーム
短い引用を持ってくることが難しかったものの、興味深いテーマなので日本語で大枠の題材だけ書き留めていおきます。

主人公が死ぬ小説・映画は多々ありますが、主人公が死ぬゲームというのはあまり多くありません。特に、主人公が苦しみ、絶望して死ぬというはなかなかないでしょう。プレイヤーと主人の結びつきが他の媒体と比べて強すぎるために、主人公の絶望をプレイヤーにとってのエンターテインメントとして昇華できないようです。VR の発達と合わせて、これからいろいろな表現の探求が進むのではないでしょうか?楽しみです。


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