ゲームとゲーミフィケーションのあいだで 〈人間と情報〉の関係はいかに更新されてきたか (PLANETS ほぼ惑コレクション for Kindle)
Kindle オーナーライブラリ対象だったので、今月はこれを借りて読んでみました。
ページ数はとても短く、丁寧に読んでも30分程度で読める文量ですが、内容は濃く多岐にわたっていて、借りてよかったと思います。
テーマは『情報技術の発展による「人間」像の更新』ということで、ソーシャルゲーム、エンターテイメント、メディアなど、色々な話題についてケームクリエーター水口哲也さんと、ゲーム研究者井上明人さんが語られています。
引用とメモ。
コンピュータゲームで、主に快楽のため、夢の実現のために追求してきた様々なテクニックや手法は、いま、情報技術の発展で社会構造の中に実装されつつあり、ゲーミフィケーションという名で呼ばれています。
この本におけるゲーミフィケーションの定義。
人間のローカルなコミュニケーションをインターネットが可視化して、それをこれまでよりも深いレベルで、それも大規模にゲーム化することが可能になったとき、ほんとうに何でもない、ほとんど中身のないやりとりをダラダラ続けているだけでなんとなく承認欲求も満たされるし、ゲームも進行して面白い、という一種の麻薬的な「時間つぶし革命」を実現してしまった
主にソーシャルゲームの話。ゲーミフィケーションは「なんでもないこと」、あるいは「悪いこと」にも人々を熱中させられる技術でもあるため、使い方を考えなくてはいけない、ということではないかと思います。
今は目の前にあるこの15分を消費したい、大きな有料の感動より、無料で手軽に遊びたい、という欲求やニーズの方が勝っちゃってるからこそ、ソーシャルゲーム人口も上がっている
WiiU や PS4 といった据え置きの大型タイトルから、「アプリ」へ人が流れている傾向について。大型ゲームが好きな人間としては寂しい一方、社会人になってからは確かに大型タイトルを遊ぶ気力が中々起きず、こうした感覚がわかってしまうのも事実です。振り返った時により大きなものが残るのは、有料かどうかはさておき「大きな感動」の方だと思うので、なんとか気力をだして「暇つぶし」に溺れないようにしたいものです。
明らかにこの種のソーシャルゲームは「作品」よりも「社会」の側に重心が置かれている。だから「ゲームとしてつまらない」という批判はあまり意味がない。これらの企画の目的はコミュニティ形成であって、ゲームはそのための手段でしかないし、ユーザーが享受している快楽もコミュニティサイトを通じた友人間の交流のそれが占める割合が大きい。(中略)『ポケモン』や『モンハン』ではゲームという作品の快楽の追求が目的で、社会=コミュニケーションはその快楽を支える装置=手段えしかない。しかし、ソーシャルゲームではこの関係が逆転している。社会が目的で作品が手段になっている。
ソーシャルゲームにおけるコミュニケーションと、『ポケモン』や『モンハン』といったゲームにおけるコミュニケーションの役割の違いについて。
コンピュータゲームの歴史とは、手段と目的のあいだを撹乱するシステムを洗練する歴史だったはず。どんなゲームも、少しバランスが狂うと「ゲームのためのゲーム」に、つまり「作業ゲー」になってしまう。
RPG で言えば、最終目的は「ストーリーをクリアする」で、そのための手段である「敵を倒す」、「ダンジョンを攻略する」、「アイテムを集める」、「レベルを上げる」という要素それぞれに面白みを持たせようとしてきた、という感じでしょうか?
今まではクリエイティブの神様というのはクリエイターという人たちの中に生息していて、その神をファンが崇拝していた。それが今では「僕も育ててるんだ」というふうに主体がパッシブな三人称から、アクティブな一人称に変わり始めている。
AKB や初音ミクの流行、参加するエンターテイメントへの移行について。『日本代表』のような本当に限られたトップレベルの個人・団体以外は見るエンターテイメントの対象としての価値を失いつつあるのかもしれません。
いわゆるエリート層の人って、自分が置かれた環境に勝手にゲーム的な構造を読み込んで、自分がプレイヤーとして同行動すべきか判断できる人の比率が多い印象を受けます。
確かに「ゲーム的な構造」が与える「何をすればどういう結果が得られるか」という因果関係を自分で紐解く事ができる人はエリート層になりやすい気がします。
「誰もが情報発信できる社会」が定着したとき、その結果何が起こりつつあるかというと、様々な情報や言葉が、有象無象の匿名の言葉と、ひと握りの固有名の言葉に分かれ始めているということです。
匿名の言葉は、一般人の書き込み、固有名の言葉は有名人の書き込み。一般人の書き込みはその内容に重きが置かれ、有名人の書き込みは内容よりもその人が言った、ということに重きが置かれていて、この中間にあったマスメディアは居場所を失っているという話。
最後に、水口哲也さんは、人の好奇心、探究心をとても大事にされていると思いました。そういうことに、ゲーミフィケーションの考え方が活かされると良いですね。